2017年04月30日

おばけなんてないさ♪って、フルコーラスで歌える?

自分は空のコップで、注がれたものは、基本的には、何者かによって注がれたものだと言ったけど、そもそも「自分」だと思って(勘違いして)いたものは、何者かによって注がれたものであって、それが、

親であったり、
先生であったり、
友達だったりするわけだ

これは、ある意味洗脳みたいなもんで、これがあるから、不安やら恐怖やらそういうモンに襲われるようにできている

というよりも、洗脳するために不安や恐怖を無意識に利用されていたといったほうがいいかもしれない

だから、自信は70%くらいがちょうどいいと言ったわけだけど、30%の不安ってのは一体どこから来るかって話だ

これは、息子の話が分かりやすいんでそれを例に言うけど、多くの人に当てはまると思う

基本的には怖いもの知らずな息子なんだけど、2つだけどうしても怖がるものがある

・幽霊(オバケ)
・虫


虫が目の前に現れようものなら、ジャイアンを彷彿とさせる日ごろの勢いはどこへやらだ(笑)

幽霊にいたっては、長男の怖がり方はハンパない(笑)
夜のトイレはいまだにドアを閉められない

で、あるとき、こんな事を聞いてみた

パパや、ばぁばが幽霊になって会いに来てもそうやって怖がるの?

すると、それは怖くないと言う(笑)

ようはそういう事なのだ

幽霊そのものが怖いんじゃなくて、
知らない(分からない)から怖い


ってこと

で、不安や恐怖もそれと同じなんじゃないかな

コントロールできない事

なんだから不安であり、怖いんだよね

自信は70%くらいでいい

というのもそういうことで、人は、情報(環境)の中でしか生きられないんだから、制御不能なモンをどうにかしようとしてもそれは無理というより、無茶なんだよね

多くの人が、他人に作られた(洗脳された)自分を生きてきたわけだから、

他人が作ったもんだから、制御不能

なわけ

これが、

不安や恐怖

というものの正体なんだよね

じゃ、その不安と恐怖を克服するにはどうしたらいいかってなると思う

それが、

30%の不安が努力を与えてくれる

ってことなわけで、ようは、自分で創れってことだ

自分で創るんだから、勘違いしようが、何しようがお構いなしなんだ

社会の人間が全て自分と同じわけじゃないんだから、あなたの「知らない(不安)」事を、すでに「知ってる」という人だって当然いるわけ

ようは、「おばけなんてないさ」ってあの歌のようなもんなんだ
あの歌の後半は、実はすごく深いんだよね

だけどこどもなら
ともだちになろう
あくしゅをしてから
おやつをたべよう
(サビ)

おばけのともだち
つれてあるいたら
そこらじゅうのひとが
びっくりするだろう
(サビ)

おばけのくにでは
おばけだらけだってさ
そんなはなしきいて
おふろにはいろう
(サビ)


だから、不安なときは、おばけなんてないさと歌ってみればいいわけだ(笑)

あなたにとっての「おばけ」と「トモダチ」になって、共に何かをすれば、人がアッと驚くようなことが巻き起こるかもしれない
「おばけ」の国じゃ、おばけしかいない
そこでは、あなたの「不安」は「自信」に変わるかもしれないし、「普通の事」かもしれない

不安なんてもんは、所詮は他人に注がれたモノでしかないんだからね
posted by コウちゃん at 12:00| 福岡 | Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月29日

70%の自信と30%の不安

70%の自信が日々勇気を与え、
30%の不安が努力を与えてくれる

〜島田紳助〜


人は「やるべき」を考えると、ヤル気が失せるって話したけど、これは、やるべきを考えて、完璧を求めるから、いろんなモンに縛られるということ

そもそもが「完璧」なものなんてこの世にはありはしない
もしできてしまえば、その時点でそれ以上の進歩はなくなるだろうね

「完璧なモノ」なんだから、それ以上になることなんてないわけだからさ

これは、僕たちが生きていく上で、基本的な事なんだと思ったほうがいい

完璧にするための完璧な準備

が当たり前のように思われるけど、これは、言い換えれば、

状況の変化に対応できない

ということでもある
だって、計画してる間にそもそもの状況自体が変わっちゃうことだってあるわけよ

にもかかわらず、

完璧な準備

にばかりとらわれている人が多いわけだ
それが通用したのは、大げさでも何でもなく、100年くらい前の話だと思う

それよりも、僕は70%くらい(今なら、60%でもいいかもしれない)は自信があるけど、30%くらいは不安だという事でもやってみりゃいいと思う

100%の自信じゃないんだから、ダメならダメで割り切れるし、不安を埋めるために、そこで初めて「ヤル気」というのがわいてくるわけだからさ
でもって、良ければ良かったなりに、それは努力が実ったからなんだよね

そうやって、ヤル気だとか、モティベーションってのが高まるのであって、ヤル気や、モティベーションそのものを高める方法ってのがあるわけじゃない

というか、結果というのは「生まれる」のであって、「作り出す」ものじゃないんだよね

創りだそうとするから、「デキない」時にヘコむわけ

結局のところ、みんな真面目すぎんだよ
完璧じゃないのが人間なんだし、完璧な人間もモノもないのに、最初から完璧にしようとするなんてできっこないと思うわけ

それよりも、ちょっとくらい不安があるくらいなら、穴を埋めようと必死になるし、ヤル気も続くし、モティベーションだって「わいて」くる

そのちょっとくらいの穴埋めをする姿に、人は感動したり、共感したりするわけで、その繋がりを感じられるからこそ、人は生きていけるのだと思うんだよね
posted by コウちゃん at 15:25| 福岡 ☀| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月28日

「結果」先に立たず

後悔先に立たず

って言葉があるけれど、言い換えりゃこれは

結果先に立たず

ってことでもある

「やるべき」を考えると、人は「ヤル気」が失せると言ったけど、それは、目的や、目標を持つなということではない

目標や、目的を達成するために、大事にするものを「やるべき(やり方)」にフォーカスするんじゃなくて、「やりたい(あり方)」にフォーカスするってこと

「やるべき」にフォーカスするから、やれ計画だとか、やれPDCAだとかマニュアルだとか、そういう事になってしまう
でも、その通りに事が運ぶわけなんてないのが世の中であり、僕たち人間なんだよね

なのに、「やるべき(やり方)」にフォーカスしてるから、思った通りに事が運ばない時に「ヤル気が失せる」ということなわけ

「やるべき(やり方)」にフォーカスして、望む結果が手に入るのなら、どんなに楽だろうかと思う
だけど、現実はそうじゃない

ようは、結果というのは、段階を踏んで創りだすものじゃなくて、偶然生み出されたものだということ

だから、「やるべき」にフォーカスしている限りは、深刻になっちゃうし、上手くいかなきゃ後悔だってするわけで、上手くいかない事実だけを切り取って主観で判断してしまうことにすらなる

だけど、「やりたい」にフォーカスしていれば、やりたいことやってダメだったとしても、後悔はしないだろうし、もっと気楽に次に進むことだってできる

結果が生まれりゃ、それはそれで楽しいどころの話じゃない

その為には、自分が空のコップだと思えばいいというわけだ

注ぎたいモノを注ぎ、飲みたいモノを飲む

ようは、環境が大事ってことだ
僕たちは、空のコップなのだから、注ぎたいモノを注ぐことができる
だけど、注がれたものがイヤだという人もいる

だったら、イヤだという人に無理やり飲ませなきゃいいわけで、注がれたものを飲みたい人が集まる環境に行けばいいだけの話だ

ここが、リアルなコップと違うところだ
僕たちは自分の意思で動くことができるコップなのだ

動きたくないなら、その場の環境に応じたものに変えればいいのだし、動けば間違いなく今とは違う結果が生まれる
どこに行っても同じ結果で悩むというのなら、そもそもの注がれているモノを変えりゃいいだけの話だ

だから、僕は自由でありたいと思うから、自由でいられる環境を創っていく
自由な環境の中から、自由な発想が生まれるし、多様なデザインも生まれてくる
posted by コウちゃん at 13:47| 福岡 | Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月27日

人の歴史は、コピペの歴史

僕たちは、空のコップだと話したけど、これが分かるようになるとホントにいろいろなことが楽になる

あなたがコーヒーを注がれたコップであれば、コーヒーを飲める、あるいは好きな人があつまるだろうし、コーヒーが嫌いな人はあなたとの距離が遠くなる

だけど、あなたというコップには、常にコーヒーが入っているわけではないのだ

オレンジジュースが入っている時もあれば、ビールが入っている時もある

ようは、何が注がれている時に人と出会うかで、人との関わりが変わってくるということだ

で、これは、逆も然りで、あなたが人を判断する時にも言える

コーヒーが入っている人と思えば、あなたには、相手がコーヒーなんだと思うだろう

だけど、あなたがそんなにコーヒーが好きじゃないとしたとき、恐らくその人との距離は縮まらない

でも、別の瞬間、オレンジジュースが入っていて、あなたがオレンジジュースが好きだとしたら、そのギャップをたまらなく愛おしく思える時もあると思うのだ

ようは、目の前の一瞬を切り取ってしか判断していないということだ

人の発言や、行動のたった一部分を切り取って、そこだけで判断してしまう
しかも、それが、「主観」で歪んで表に出てしまうからおかしなことになるわけ

例えば、午前様で帰ってくるダンナを鬼の形相で攻め立てる妻でありがちな光景で言うと

ホンット最低!私はずっと待っていたのに、飲んで帰ってくるなんて…
どうせ私より、仕事の方が大切なんでしょ!

と言われて、だんだんケンカに発展していくなんてのはよく聞く話だけど、この中で事実というのは、

・妻が待っていた
・連絡もなしに飲み会に行っていた


ということだけ
「最低」っていうのも、「私より、仕事が大事」というのも、妻の主観でしかない

で、ケンカに発展しちゃう時ってのは、ダンナが「事実」を受け取るのではなく、妻の主観に目を向けちゃった結果、返した返事が「ズレ」てしまうからケンカになるというわけ

事実だけを受け取れば、

連絡もしないで、待たせてゴメン

と言えるわけだけど、「仕事の方が大事なんでしょ」って「主観」に対して、

俺だって、付き合いがあるんだから仕方がないだろ

なんて言おうものなら、どうなるか…言うまでもない…よね(苦笑)

「事実」が「主観」で歪んでしまう

こうしたことは僕も含めた多くの人が「日常的」にしている事だろうと思う

情報で手に入る事実というのは、いわゆるマスコミによるものだけではない
今は、誰もが情報を手軽に大量に手にすることができるし、マスコミでなくとも情報を発信していける時代だ

SNSにおけるリア充投稿も情報だし、人間関係での会話も情報だし、何か(誰か)を見たという些細なことすら情報なわけだ

ようは、僕たちは日々情報というものを受け取り、発信することで生きているということ
それが意識的だろうと、無意識だろうとね

言い換えるなら、情報の中でしか生きられないということだ

ただ、注意しないといけないのは、その情報というのは、

切り取られた1瞬で、事実は事実だけとして受け入れる

ということを意識していくことが必要だ

全ての情報が、全て「過去」なわけ
さっきの例でもそうだけど、午前様で帰ってきた事実は、「現在」でも、

・妻が待っていた
・連絡もしないで飲み会に行っていた

という「そもそもの事実」は「過去」のもの

もしかしたら、とんでもなく大きな商談が急に成立したから、そのお祝いをしていたかもしれないし、あるいは、同僚や、後輩がものすごく窮地に陥ってそのフォローをするために飲みに行っていたかもしれない

その場の「状況」という「事実」は把握していないわけなのだから、妻も「主観」で責めたてる前に、

連絡もなしにもの凄く遅かったけど、飲み会に行ってたんだね
何かあったの?

と言えれば、妻の「事実」だけがダンナに伝わり、「何かあったの?」とただ聴くだけなのだけど、どちらもその事実に至るまでの「詳細な事実」を把握することができる

その次に、今度は妻の「事実」を伝えればいい

妻:(事実を聞いて)そうだったんだね、だけど、連絡もないから心配したし、寂しかったし、不安にもなったし、せっかく作った料理もムダになっちゃったし

と言えば、今度は、「妻側の事実」がダンナにも伝わって、お互いに「事実」だけが確認し合えるようになる

だけど、この場合「真実(真相)」というのは分からない
もしかしたら、浮気していたかもしれないし、リストラされたことを伝えたくなくてやけ酒していたかもしれない

「真実(真相)」というのは、本人だけが知っていることで、事実とは少しばかり違う意味になるから、真実をいくら疑ったところで結局のところ解決しないモノなのだ

そういう意味では、僕たちは「事実」と「情報」の中でしか生きられない生き物だと思う
真実や、主観というのは、時に事実をゆがめたりするものだから、そこにフォーカスしても仕方がないと思った方がよっぽど楽になると思うんだよね
posted by コウちゃん at 14:31| 福岡 ☁| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月26日

「やるベキ」ことより、「やりタイ」こと

僕たちは、空のコップで、注がれたもので判断したり、されたりする生き物だとかいたけど、ようは、「結果」とかそういう「目に見えるモノ」で判断するしかできないということだ

で、その「目に見えるモノ」をみて、「見えたモノ」そのものをどうにかしようと考えてしまいがちだ

だけど、僕は、本当にそれでいいのかよって思ってしまう

というのも、僕たちは「凡人」なのだから、

やるべき事

というモノが目の前に出てきたときに

「やるべき」ことが「デキない」から、凡人なわけだ

親として、こうあるべき
社会人としてこうあるべき
ビジネスマンたるものこうあるべき
男として、女としてこうあるべき

○○として、こうあるべき…

そういうモノが出てきたとき、

それは分かるけど
確かにそうなんだけど

と、「何もしないために何でもする」ように、「デキない」を自分から作っていく

そして、デキないにフォーカスするから、「悩み」に縛られる

それが、フツーで、それが「凡人」なんだと思う

で、そうなった時に、人は、

ヤル気が失せる

んだと思うんだよね
最初は、思い描いた楽しさとか「やりタイ」で始めたことでも、「やるベキ」に変わった瞬間一気にヤル気が失せて、まるでそれまでの情熱が嘘のように冷めることがあると思う

夫として(妻として)こうありタイ

と思って結婚したつもりが、

夫とは(妻とは)こうあるベキ

になった瞬間に恋人同士のあの頃の情熱が冷めることがある人がいるみたいに

だから、僕は

動く

ってことを何よりも大事にしようと思ったわけ

こうありタイ
こうなりタイ

と思っている限りは、人はどんなことにも、どんなところにも動くことができる
その為に必要な環境を変える事も、考えることも全然苦にならない
それは、凡人であってもそうだろうと思う

過去の栄光

にすがることもなくなるから、過去の実績だとか、過去の成功とかそういうモンもどうでもよくなる

大事なのは、「今」と、これからの「未来」だと思うわけ

こうあるベキ

ってのは、あくまでも、「過去の統計と実績」なのだから、それに「従う」必要なんてないわけだ

それに「従おう」とするから、いろいろなものが見えなくなって、縛られてしまう
そもそもが、「過去のデータと実績」というのが今の時代は通用しないのだから、そこからモノを考えたって仕方がないのだし、過去は変える事ができない

だから、結果が出ない

ということになるわけだ

僕たち人間は、空のコップだ

創りだそうとするのではなく、そこに何が注がれるかということで自分というのが初めて「生まれてくる」ものだ

これは、個人レベルでも言えることだし、組織レベルでも言えること

注がれるものが毒だったり、悪酔いするようなものなら、最初から注がなきゃいいわけで、別のモノを注げばいい

ただ、毒や、悪酔いするかどうかというそもそもの事を「知らない」人が多くなっちゃったから今はいろいろな問題になっているだけの話だ

毒を知るのも、悪酔いするかどうかも、動いてみないと分からない
そもそもの毒は知らなきゃ致命傷だけどね

結局のところ、“個”の力を高めない限りは、何も変わらないよって話だ
posted by コウちゃん at 13:05| 福岡 ☔| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする